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2024年09月21日
木ノ下歌舞伎「三人吉三廓初買」
本公演の上演時間が5時間超なのは「廓初買」という初演の本名題通りに遊廓の人間模様を中心とした場面をしっかり再現したからで、その部分が上演された最近例は今年71歳になる私が生まれた年だったのだから、つまりはそれをしっかり見覚えている人は現在ほぼ皆無に近いものと思われる。こうした国立劇場もできないような復活上演をしてくれるのが木ノ下歌舞伎の有り難さであり、とにかく5時間超をさほど長く感じさせなかった点で非常に成功した上演なのは間違いないし、その部分が新たに加わったことで、お坊吉三の出自や彼と和尚吉三一家との曰く因縁じみた関係がわかりやすくなり、百両の金と家宝の庚申丸という銘刀がグルグル回ってあらゆる登場人物を絡め取るという劇構造が鮮明になったのは確かである。ただ少し文句をつけるとしたら、その復活上演した部分に対して、木ノ下歌舞伎らしい現代の批評性みたいなものがもっとあってしかるべきだったのではないかと思う。復活した部分は木屋文里という通人と一重という花魁の恋愛模様で、前半は江戸中期の風俗小説をそっくり取り込んで江戸の廓における男女関係の機微をわりあいリアルに描いていながら、後半は男が没落する一方でその妻が夫の愛人である花魁に異常なほどの親切を尽くすという上方狂言みたいな展開になり、これは初演した俳優が上方で修業していた関係でこうしたドラマ作りになったものと思われるが、今回の上演では前半と後半の違いもさほど意識させず、現代人には頗る違和感のある後半を異化するでもなく、全体を意外なほどまるっと再現しているのがいささか気になったのだ。ここでふと想い出されたのは過去にグルジア(現ジョージア)共和国の劇団が来日して『心中天の網島』を上演した際、治兵衛とその愛人小春に対する妻おさんの異常なまでの尽くし方を或る種の狂気として描いた新鮮な演出で、今回もこの部分を上演するならするで、そうした何らかの現代性を持たせた視点を取り入れるべきではないかと思われたのである。というのも従来の「三人吉三」がメインとなる部分は現代性が通底しており、幼児期に誘拐されたせいで女装の非行少年になるしかなかったお嬢吉三、中産階級だった実家が没落離散して非行に走ったお坊吉三、性産業に携わる貧困層の家庭に生まれて犯罪に手を染めやすかった和尚吉三、いずれも江戸の闇にしか居場所のない三人が期せずして次々と罪に問われるサマを、私は1990年代初頭の『ぴあ歌舞伎ワンダーランド』で「三人だから生きられたーこれは江戸版の『俺たちに明日はない』だ」とコピーしたが、このキャッチコピーが当時よりも今むしろよりフィットするように感じられるのは、幕末という日本の大転換期を反映した同作品が、イノベーションによる社会構造の激烈な変化の中で旧来の家庭が崩壊して窮地に陥いった若年層が続出する今日と相通じるものがあるからかもしれない。同作品のそんな現代性を、今回の杉原邦生演出は大川端で三人が出会う場面に凝縮させていた。中でもお嬢に扮した坂口涼太郎のキレッキレな所作は目を瞠るものがあり、大詰めにお嬢が火見櫓の太鼓を打つ姿も印象的だったものの、この三人の大詰めはいささかあっさりし過ぎたように見えたけれど、この他に何役もこなしている演者の体力を考えれば精いっぱいの大奮闘だったのだろう。少々疑問に感じたのは2幕目の幕開きに能狂言の「朝比奈」をもどいたような地獄の場が挿入されていたことで、この場面が後にどんな効果をもたらすのかが不明だったし、それよりは作品全体の人間関係をもっとわかりやすく念押しして伝えるような軽い場面を設けたほうが望ましいように思われた。ともあれテキストレジや演出面でまだまだ練りあげられるべき余地を残しつつも、黙阿弥の最高傑作「三人吉三」の現代性を目に見えるカタチで今日に訴える舞台化に成功したのは確かであり、それを可能にした俳優陣全員の奮闘ぶりには惜しみない讃辞を送りたいものである。