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2024年09月14日

「もしも もしせめて(What if if only)」「数 ( Number)」

「クラウド9」や「トップ・ガールズ」で英国の前衛劇作家として80年代の日本に紹介されたキャリル・チャーチルの最新作を上演するとあっては観ないわけにもいかない気持ちで昨日は世田パブに駆けつけたのだった。上記の2作は女性の世代や時代の差を軸にしてジェンダーレスを取りあげた先駆的な作品だっただけに、今回は出演者全員男性というのがいささか意外な気もしたのだけれど、やはりキャリル・チャーチルは常に時代をちょっとずつ先取りしつつコンテンポラリーな問題を今日に問いかけるという点で、80代になってもなお「前衛」であり続けるのを再認識させた公演ともいえそうだ。
3年前に書かれた最新作「もしも、もしせめて」は愛するパートナーを喪った男が切々たる思いを語る独白に始まって、女装した男優がいきなりそのパートナーの亡霊じみた存在として出現し、男がそれを断固拒絶するあたりは一種の不条理劇的な笑いを誘うが、出現したのは男にとって見たくない「現在」でもありまた「未来」でもあって、つまりは過去に「もしも」起きていたら、あるいは起きていなかったら、それは革命やあらゆる社会事象も含めて、世界にさまざまな現在と未来があるという哲学的な大命題をストレートに且つトリッキーに見せる20分ほどの舞台である。喪失者の男を演じた大東駿介と、女装して「現在」と「未来」を表現した浅野和之ともどもかなりのハイテンションで短くも濃密な時間を観客に共有させてくれた。
「数」はクローン人間の話で、クローンとして生まれたことに気づいて傷ついた息子と父親の関係、オリジナルでありながら父親に疎ましく思われる息子の存在と父親の関係、20分の1でしかないクローンでありながら自身の存在に父親の関与を無視できるほどの自信に満ちた息子の存在を通して、父権の喪失と個人社会化した現代における人間のアイデンティを問いかける作品だ。「クラウド9」でも父権の喪失にこだわっていたキャリル・チャーチルならではと思える一方、今やクローンと変わらないほど個性や個人の存在感が希薄になりつつある現代の人間を象徴的に描いた作品ともいえそうで、瀬戸康史の演じる息子はセリフよりもその佇まいで違いを際立たせていたし、堤真一は極めて身勝手なそれでいて奇妙に温かくもある父親という存在を具現化していた。


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