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2023年08月21日

中村京蔵 爽涼の会 フェードル

昨夜は乗馬帰りの観劇だったので、何しろ西洋を代表する古典劇だけに途中で寝ちゃったらどうしよう(^_^;といささか心配されたが、それは余計な取り越し苦労というもので、幕開きから息もつかせぬ緊迫したセリフの応酬に自ずと引き込まれる秀逸な舞台だった。同行してお隣の席だった翻訳家の松岡和子さんは「今回でようやくこの芝居の構造がハッキリ掴めました!」と仰言ったし、ラシーヌの代表作として戯曲には目を通しても舞台で観るの今回がなんと初めてだった!私もこの戯曲がなぜ西洋古典劇の最高峰と目されているのかをハッキリと認識できたのだから、この上演の意味は非常に大きかったし、それが中村京蔵という一歌舞伎役者の自主公演だったのもある種フシギな感懐を催させる出来事といえなくはないのだった。
「フェードル」が継母の義理の息子に対する恋愛を扱った話であることは周知の事実だし、浄瑠璃や歌舞伎の「摂州合邦辻」がよくそれと比較されたり、また三島由紀夫の翻案歌舞伎劇「芙蓉露大内実記」もあったりするので歌舞伎ファンにもおおよその内容は知れ渡っているとはいえ、京蔵がどれくらいの勝算をもってこの上演を企図したのかは不明だけれど、「NINAGAWAマクベス」の顰みに倣ってこの戯曲を歌舞伎スタイルで上演しようとしたのがある点で頗る効果的だったのは、上手に障子屋体のある御殿の一杯道具にして、御簾の上げ下げや襖障子の開閉のみでシーンが速やかに変えられて、且つ衣裳や所作等によって人間関係を明瞭にさせられたことだろう。松岡さんはそれで今回初めてこの戯曲が3組の主従関係によって成り立つ会話劇だと認識できたのだという。つまりアテネのテゼ王の妃フェードルは乳母のエノーヌに自らのイポリットに対する恋心を打ち明け、王子イポリットは傅役の家来テラメーヌに自らのアリシーに対する恋心を打ち明け、テゼ王の政敵の娘アリシーは自らの侍女イスメーヌにイポリットに対する恋心を打ち明けるといった塩梅で物語が進行するのである。劇全体にアテネ王国の御家騒動的な枠組みはあってもストーリーは概ね恋愛で占められて、他にも乳母が育てたフェードルをいかに愛し、王が追い出した息子をどれほど愛していたかというふうに、人間が人間を愛するという気持ちはどのようにして湧き起こり、どのように変化して、どのような悲しい結末を迎えるかに特化して語られるのだった。そこがいかにもフランス的というか、現代のフランス映画にまで一貫したAmourの国のドラマの原点を感じさせる戯曲であり、その点では同じ西洋の古典劇でもシェイクスピア劇とは全く質の異なる戯曲だからして、NINAGAWAマクベスを手本にしようとしたのは結果オーライの点が多々ありつつも、いささか安易な発想だったと指摘せざるをえない。愛が正面切って語られることの実は意外と少ない英国のシェイクスピア悲劇と大いに異なるのはその成立年代にもよるせいか、およそ1世紀ほど今日に近いラシーヌの戯曲は極めて近代的な香りがして、一個の人間の気持ちの揺れや変化が緊密にセリフに反映されているので一種の心理ドラマの様相も呈している。従ってBGMの多用はその緊密さを多少損なっていたことも指摘しておく。ただしそれを指摘したくなるほどに、一方では緊迫感溢れるセリフのやりとりで舞台を十分保たせていた達者な出演陣全員の功績と、それを巧く引きだした大河内直子の演出や岩切正一郎の翻訳を讃えなくてはならず、ことに特筆しておきたいのはイポリットの死を臨場感溢れるセリフで語り尽くしたテラメーヌの役の青山達三だろうか。
当公演の会主であり且つ主演した中村京蔵を讃えるのは勿論のことで、正直いって彼が純然たるセリフ劇をここまでナイーブに成立させられるとは思わなかった。歌舞伎のセリフ回しは概ねリアルな「世話」と大仰な「時代」とに分けて、一人のセリフをここは「時代」に張って言うとか「世話」に砕けて言うといったふうなバリエをつけるのが歌舞伎役者の常態なのだけれど、今回の京蔵はそのつなぎ目を感じさせないくらい滑らかにナチュラルにセリフを言ってフェードルの心理をナイーブに表現し、歌舞伎役者らしからぬ演技の巧さを見せつけたし、一方ではまた歌舞伎役者らしい年齢を感じさせない若さと美しさを見せつけたのが長年の観客としては実に有り難かったというべきだろう。


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