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2023年04月11日
富岡多恵子さんを悼む
訃報に接したのは昨日のお昼過ぎだったので、書き直し中の原稿を手に新幹線に飛び乗って伊豆の川奈にある斎場に向かったが、知人が全くいないであろう遠方のお通夜に駆けつける気にまでなったのは、正直自分でも意外だった。ただ最近夢を見たか何かで故人のことを想い出していたばっかりだったのと、連載小説で主人公がちょうど親しい人と死に別れる場面を書いている最中だったので、これは何だか呼ばれているのかもしれないという気がしたのである。
故人とのご縁は拙著「師父の遺言」に書かせてもらっているのでここには余り触れないつもりだが、今思うと我が半生のちょうど最後の時期にたまたま出会い、大混乱の最中で後半生に向けて変身しつつある私を見守って下さった方のような気がして、それ故ほんの数年間の交流でも想い出深いのだろう。
当時は故人も作家として難しい時期にさしかかってられたようで、純文学女流作家の王道を歩まされそうでいて、それがどうも居心地が悪い感じもあったらしく、河野多恵子さんの後釜で朝日の文芸時評を担当するかと思えば、上野千鶴子に引っかけられて「男流文学論」に手を出すなどの迷走期だった様子は、およそ文学とは無縁だった私にも傍で見ていて少しは察せられたのだった。書かれる小説もどんどん難解になっていって、私には小説というより詩と評論が合体したもののように読めるということを、恐れ気もなくご本人に言ったことがあり、ご本人はご本人で「今は小説が評論で、評論が小説になる時代なんですよ」と明言され、あげく私に小説を書け!書け!と言われ、大手出版社の純文学系の編集者まで差し向けられたことにはたいそう困ってしまい、そのことで富岡さんとは電話でケンカしてしてしばらく音信不通状態だった。
とにかく富岡さんは当時の「渾沌」を気取ってた私に何とか目鼻をつけてやろうとなさっていたようで、朝日の文芸時評にいきなり私の浄瑠璃評論を取りあげて驚かすなど、こちらはビックリのし通しだったが、その富岡さんの手が全く離れたところで私はデビュー作「東洲しゃらくさし」を上梓し、これが相当のお怒りを買ったようで、またもや朝日にまるで私に当てつけたような批判を書かれ、その後また電話でなぜ写楽なんだ!なぜもっと純文学のようなものを書かないんだ!としつこく追求されるのがほどほと面倒になり、もう電話してこないでください!とこちらから縁を切るはめになった。
その後は同じ小説でもジャンルが全く違う分野で仕事をしていたので、別に気にされていないように思っていたら、某新聞の文芸記者から「富岡さんをよくご存じなんですね」と訊かれ、その記者は富岡さんが書店で拙著を指さして「わたしこの作家を知ってるのよ」と嬉しそうに言われていた話をされたのだった。それからまた何年も経ち、「師父の遺言」を上梓してしばらくしてから大宮の新居に突然富岡さんの電話がかかってきたので仰天し、一体だれがこの電話番号を教えたんだろう?と訝りながらも、「師父の遺言」をたいそう賞めてくださったのは有り難く、一度また会いたいと言われて、琵琶湖畔の別荘でお目にかかったのが2016年の3月23日だったのは当ブログで確かめられた。その時は以前とほとんどお変わりなくて、お互い流れた歳月のブランクを全く感じないで忌憚の無いおしゃべりを存分に楽しんだのだった。そのあと何度か伊豆高原のお住まいか、琵琶湖畔の別荘をお訪ねしようと思いながら、どんどん年を取られているだけに訪問は次第に遠慮されて、結局のところ晩年にお目にかかることは一度もなかったのが大いに悔やまれる。
昨日川奈に向かう伊豆急の車窓からは夕陽に輝く美しい海が見え、琵琶湖畔の眺めと併せて、つくづく富岡さんは水辺が好きな方だったんだなあと思いながら斎場に辿り着くと、そこの祭壇に飾られた遺影は若かりし頃の何だか哀しそうな表情の写真であることに気づいて、これはご夫君の菅木志雄氏のお気持ちの反映かもしれないと思ったものである。菅氏の御遺族挨拶によれば、最晩年は外へ全く出らずに家に籠もって、食事の量も自らセーブすることで次第に衰弱するようなかたちの自然死をされたという話が実に感銘深く、自らの意志を貫き通して今どきはなかなかできない最期を遂げられたことに富岡さんの強さを改めて思い知らされた気がして、できれば自分の最期もそうありたいと願わずにはいられなかった。ただ棺のお顔が意外なほど不機嫌そうに見えたので、富岡さんはやはり今日の日本に、世界にも絶望し、何だかひどく腹を立ててらっしゃったんだろうなあという気がして、ああ、今こそ往年の鋭い筆先や舌鋒を揮ってふやけた世間をバッサバッサとぶった斬ってってほしかったのに、と切に思わずにはいられませんでした。合掌。
コメント (2)
私は、富岡多恵子さんの作品を全く読んでいないので、ここにコメントするのは、気が引けますが、
いつだったか、池田満寿男さんの作品展で、
「タエコの朝食」というのを見たことがあって
その中の、タエコのお顔がハート形で、つまりハートの中に目鼻があるというのでした
タエコが食べる朝食が並んだテーブルの様子とともに、今も蘇ってきます
多恵子さん、愛されていたんですね
今朝子さまが、矢も盾もたまらず、電車に飛び乗ったのも、名づけられないような愛しさではないでしょうか
合掌
投稿者 せろり : 2023年04月12日 01:40
他では絶対に読めないであろう追悼文をありがとうございました。
「老衰」と聞いてまず思い浮かべたのは、富岡さんの、出羽三山の即身仏を扱った小説「雪の仏の物語」でした。
もともと食も細く好き嫌いのひどそうな彼女なら、さもありなんと思いました。
いつぞや鶴見俊輔さんとの「鬱談議」でだったか、自宅の剝き出しの梁を見ていると、良くない誘惑にかられそうになるので、亭主に、天井板を張ってくれるように頼んだ、というようなことを読んだ覚えがあります。矢川澄子さんの例もあるだけに心配していました。
御夫君の御遺族挨拶からは、かなりギリギリまで自宅で過ごされたのかなと推察され、その点でも良かったと思いました。
将棋対局のAI判定に倣えば、松井さんの富岡さんへの思いより、富岡さんの松井さんに対する思いのほうがはるかに勝っていて、年若い方としては鬱陶しかったであろう気持ちも理解できます。
晩年の富岡さんからの再接近の試みは、様々な葛藤を隠しての、悩み抜いた末の選択だったのではないかと、勝手な想像をしてしまいました。
最晩年に、もし松井さんのブログを読んでいたとしたら、観劇、乗馬、女子会、グルメ三昧の健啖家ぶり、etc もう自分に出る幕はないなあ、と思ったかもしれません。
「師父の遺言」は本当に面白かったので、何か大きな賞をもらえるのではと期待していましたが、そうならなかったのは、武智鉄二という名前だけでスルーされたのでしょうか。
山田風太郎の明治物など読み応えがあるので、「純文学」にこだわる必要はないと思うのですが、松井さんが以前、WJ賞の受賞をうれしそうになさっている写真を見て、(賞金はもちろん目出たいのですが)、ちょっとガッカリしたことがあります。
投稿者 愛媛のヒロコ : 2023年04月13日 01:01