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2016年06月18日
カボチャのそぼろ煮、蛸とキュウリとワカメの酢の物、お茶漬け
今週はとにかく都知事騒動が一段落したというか、またぞろ50億もの都税が無駄遣いされることになったというか、いずれにしろ都民をやめたワタシには余り痛痒を感じない問題で、むしろ来週に予定されている
英国EU離脱の是非を問う国民投票のほうに多くの人が経済面で実際の損失を被りやすく、且つ現代が抱える普遍的な問題にも思えるのだった。
普遍的な問題と捉えると、要は今の時代は「つながる」ことのメリットとストレスを人類がどうバランスを取って乗り切るかという問題に集約されるような気がする。「つながる」のを余儀なくされるのはむろんSNSも同様だし、PCを使うことで必然的に「つながる」のを余儀なくされる感じは絶えずバージョンアップを要求される時点で既に顕著であろう。「つながる」ことの欲求は非常に個人差があるのも問題であり、またどのような相手と「つながる」かの選択も、今は個人や世代によって大きく違うのがまた問題だろうと思う。たとえば学校の同窓会で同学年でもない知らない人と「つながる」のとSNSで全く知らない人と「つながる」のは、ワタシなんかだと別にどっちどっちで余り必要な感じはしないのであるが、それで「つながる」のが人生の潤いになり、商売に役立ちもすると考える人があるのは当然で、だから「つながる」ことには積極派と消極派に分かれるのもまた当然といえるだろうか。積極的な人が「つながる」ことのメリットいくら言い立てても、消極派は「つながる」ことで溜まるストレスを言い募るはずで、従ってグローバリゼーション推進派と民族自決派の主張はどこまで行っても折り合いがつかない問題のようにも思えるのだった。ワタシ個人はどちらかといえば「つながる」ことに気持ち消極派なのだけれど、現代はもはや人類の誰もが「つながる」ことを拒否できない時代に立ち至ったという認識くらいはあるので、グローバル化は不可避であって、時計の逆戻しのような真似はせずにこの流れを速やかに進める中にこそ人類の未来はあるような気がしている。一方でそういう時代だからこそ、個人としてはなるべく「つながる」ことを避けて生きるのが妙に贅沢なような気がしていて、ひょっとしたら現代人にはこういうワタシのような感覚の持ち主が結構増えているのではないかとも思われるのでした(-.-;)y-゜゜