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2016年06月07日

木ノ下歌舞伎 義経千本桜

6日は夕方に「シアターガイド」誌の蜷川幸雄追悼号におけるインタビュー取材でライターの市川さんと久々にお目にかかって何かと思い出話をさせて戴いた後、東京芸術劇場で木ノ下歌舞伎の「義経千本桜〜渡海屋・大物浦」を観劇。そのあと近所の居酒屋で同行した地域創造の坪池さんとすっかり話し込んで帰宅したら日付が変わっていた次第。
日本の古典劇にはふしぎと王家のドラマがなく、それをもってしても近代以前の日本における天皇という存在の希薄さを窺わしめるのであるが、「義経千本桜」の二段目は天皇が登場する珍しい作品といえる。能の「蝉丸」の系譜に列なる「妹背山婦女庭訓」の二段目にも天皇が登場するが、「王の死」をモチーフとした点で「千本桜」の二段目「渡海屋・大物浦」の場に勝るものはない。安徳天皇が入水しようとするシーンを何度もリフレインして、そのことに真っ向から斬り込んだ今回のテキストレジーと、それを視覚的にわかりやすく見せた演出は秀逸だ。
まず保元・平治の乱に遡って源平の闘争史を加えたテキストレジーによって、平氏一族を背負って立つ知盛像がくっきりとイメージされた上で、絶えず戦に巻き込まれる国で戦禍の象徴たる着物を重ね着した上に日章旗を背負う天皇の姿は卓抜した天皇論になっている。原作の安徳天皇も義経に助けられて「仇に思うな」とあっさり平氏から源氏へ乗り替えるあたりに作者の皮肉な見方が反映されているといえなくもないが、それをよりいっそう強調して近代史につなげる意図が今回の演出にはハッキリと見えた。日本を語る上で避けて通れない天皇論を古典劇から抽出するとすれば、やはりこの「千本桜」の二段目を取りあげるのが最も適切、というよりコレしかないように思われる。木ノ下歌舞伎はこれまでも古典劇の巧妙な換骨奪胎による原作のエッセンス抽出を試みて成功を収めているが、今回はそれが非常にわかりやすい日本論につながっており、かくしてラストで亡霊たちが義経を囲んで盆踊りを繰り広げるシーンはいみじくも日本人の死生観を映し出すように見えるのだった。


コメント (1)


私も義経千本桜見てみたいな、と思いました。

投稿者 ぷーむー : 2016年06月11日 11:14

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