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2016年05月07日
8月の家族たち
渋谷のシアターコクーンで上演されているこの翻訳劇の映画版を私は一昨年に見て、某誌で映画評まで書いているにもかかわらず、芝居を見始めてしばらくはそれに全く気づかなかったくらい、また見終わっても全く違う印象を持つに至ったくらい、良い意味で違うテイストに仕上がっている。それは日本での上演台本と演出を手がけたケラの功績なのか、あるいはもともと舞台劇として書かれた原作とその映画化の相違によるものかは知らず、とにかくストーリーそのものは無惨で救いがないわりに、何故か全編笑いが絶えない舞台であり、そのことがホームドラマとしての現代性を獲得しているともいえる。世代や環境による感覚の違いによって今や家族っていいもんだよね〜なんてキレイゴトは全世界的に通用しない時代において、各人が露悪的にまで本音を追求すれば自ずとそこにはブラックな笑いも生まれるし、一方でまたそれでも生き抜く人間のしたたかさにも心打たれるのであった。そうした家族の赤裸々な本音や生と死の対比をコミカルに描いた「お葬式」という名画もかつて日本にあったが、これはいわばアメリカ版の「お葬式」であり、ただし死者はアル中で不審死、その妻はヤク中、彼らの間に出来た長女は母親に似て辛辣かつ独善的で夫を傷つけ離婚に至り、母の犠牲になっている四十過ぎの地味な次女は未婚の果てにとんでもなく道ならぬ恋に踏み込んでしまい、享楽的な三女はろくでもない男とばかりくっついたり離れたりしていて挙げ句の果ては……というようなエグイ出来事が目白押しなのもアメリカ的?いや、もはや普遍的な現代性の表れと見るべきだろう。映画はヤク中の母親役メリル・ストリープと母親似の独善的な長女役ジュリア・ロバーツが往年の美貌をかなぐり捨てた迫真の演技でぶつかるのがウリだったが、この二役に限ること無く女優陣にとっては非常にしどころの多い、いずれも女優心をそそる役に描かれていて、このコクーンの舞台でも母親役を麻実れい、長女役を秋山菜津子といった芸達者が好演し、悲劇的な結末に至る次女を常盤貴子、その悲劇の源となる母親の妹役はケラの笑いには欠かせない犬山イヌコが演じており、ラストで意外にもブラックな存在感を発揮するところがミソだろう。長女の娘でマリファナ漬けの少女を演じた小野花梨も現代っ子ぶりを遺憾なく発揮し、上演台本全体が別にアメリカでなく現代の日本でも聞かれそうなセリフに翻訳?翻案?されていることもまた、いかにもアメリカらしい自我ゆえの孤独を描いた映画とは違って、もっと普遍的な現代劇に仕上げているといえそうだ。久々に面白く見た翻訳物のストレートプレーだった。