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2015年04月06日

はなやぐらの会

女義太夫の三味線奏者、鶴澤寛也主宰の会も早や十二回を迎えていよいよ安定感が増したという印象だが、演目は『本朝廿四孝』四段目「十種香」と「狐火」でこれを併せて一人の太夫が語るのを聴いたのは今回の竹本駒之助師が初めてである。何せ三味線奏者の会だけに「狐火」で派手な技巧に力を注ぐのも当然ながら、難しいのはやはり「十種香」の出だしではなかろうかと想像された。というのも、私自身かつてこの曲を今は無き上野本牧亭の高座でちゃんと肩衣を着けて見台を前に語ったことがあるからで、昨日もロビーでお目にかかった女義太夫研究の第一人者水野悠子さんに「これは動かぬ証拠ですねえ」と言われて、その時のプログラムのコピーを頂戴したのだった。もう四十年近く前の経験なのに、今回聴いていて、詞章も曲調もほとんど憶えていたのは我ながら驚きで、若い頃の記憶力は侮れないものである。とにかくこの曲は出だしが音も間も実に捉えづらくて素人ながらに難渋したもので、明治の大名人摂津大掾にさえ「太夫を止めようかと思いました」とまで言わしめた難曲であることを考えると、これが絶対正解というような演奏を、かつても今回も聴いた覚えがあるとは言いがたいのかもしれない。ただ今回の駒之助師が越路譲りと思しき端正な語り口によって思いのほか面白く聴かせてくれたのは、八重垣姫の人物造形がくっきりとし、世間知らずな深窓のご令嬢というよりも、このお姫様は直感力が鋭いばかりでなく推理力も分析力も判断力もある大変に聡明な少女なのだ、という印象を与えたからであろう。いわゆるニンからいえば八重垣姫よりも濡衣や勝頼に向いている人なのかもしれないが、ひょっとしたら従来の八重垣姫像は近代人的な男性の眼差しによる造形に過ぎず、作者の近松半二は濡衣のちょっとした言葉の端々から推理力を働かせる聡明な美少女として描いたとするのが本当かも、と思わせられたくらいに説得力のある語りだったのは確かである。ともあれ出だしから八重垣姫が登場して「流涕焦がれ見え給ふ」までは語り手も三味線もいわば位取りの難しさがあるのだろうし、そこの部分を寛也が位負けせずに落ち着いた演奏で持ち堪えた点で以前よりはるかに安定感を増したように思われたのだった。「言ふ顔つれづれ打ち守り」以下のクドキはもう少し派手に面白く聴かせる女義ならではの語り口もあったのだろうけれど、あくまで品の良い語り口に終始するのがまた駒之助ならではの持ち味ともいえそうである。


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