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2014年05月29日
出雲・石見行
27日は一ツ橋文芸振興会の田村さん、集英社の伊藤さんと共に羽田を発ち、午前中に出雲空港到着して、すぐにタクシーで出雲大社方面に向かった。車中ドライバーから何かと話を聞いて、出雲國造と呼ばれる大社の宮司の跡継ぎが四十歳にしてまだ独身だと知り「それだと縁結び効果がゼンゼンないみたいだから何とかしないとマズイんじゃないですか〜」なんて心配をしてたら、直後のランチ中に田村さんのご友人から高円宮典子さんとの婚約が整ったというメールが入り、あまりのタイミングにドライバーもビックリ\(◎o◎)/「これってまるで私たちがおふたりの縁結びに来たみたいだよね〜」という冗談も飛び交うなかで、大社の境内に入れば一転して自ずと厳粛な空気に包まれた。
実に有り難かったのは山陰中央新報社さんの手配によって正式参拝という形を取らせてもらい、めったに入れないらしい玉垣の内側で御本殿を間近に拝せたことである。総代の私は白丁を身に着け、御本殿の階段をあがって玉串を捧げながら、これまで数々の神社に参拝しながら、初めて訪れた神社で、なぜこれほどの深い御縁で結ばれたのかちょっと不思議な感じがしたくらいだ。折しも毎朝晩に行われるという御日供祭が始まって、荘重な出雲神楽の演奏が聞こえるなか、第八十四代の千家尊祐出雲國造(話題の国麿氏の父上)を筆頭に大勢の神官が御本殿に捧げ物をされるシーンを目撃できたことや、同社の建造物等について若い真面目な神官の方から直にいろいろとお話が伺えたのも何よりだった。
ところで出雲国造という存在は、そもそもアマテラス系の子孫であり、それがオオクニヌシを祀るという形は日本の建国初期に当たって一種の民族融和策と認識され、その國造家も千家と北島家の二家があることは司馬遼太郎のエッセイで知っていたのだけれど、今回は山陰中央新報社の山根総局長からさらにいろいろなお話が伺えたのも有り難かった。山根局長は「あくまで又聞きですが」と断られた上で、千家と北島の両家に別れたのは南北朝時代らしいと話されて、一族間の激しい闘争が治まって以降は両家が交互に宮司を務めることで折り合いがついていたにもかかわらず、明治政府の神道政策によって両家共に一度は神官を離れ、その後なぜか千家家のみが出雲大社の宮司に復帰し、代わりに北島家には早くに皇室から降嫁があったことで巧くバランスが取れていた感じだったのだとか。そんなわけで地元では北島家に対する配慮からか、今回の千家家と高円宮家との縁組みに対しては手放しになれない、なんだか微妙な空気もあるとのこと。要は北島家に対する判官びいきみたいな感情もあるんだろうなあと勝手に想像しつつタクシー移動する最中に「塩冶」という地名を見つけ、そうだ!ここは考えてみれば塩冶判官の領地でもあったんだ!と想い出して、島根県は京都に負けず劣らず日本の歴史が重層的に積み重なっている土地だと実感されたものである。下段の写真はアマテラス系の民族がやってきて国譲りを要求したとされる稲佐の浜。
コメント (1)
塩冶家、長男の仲人が塩冶家の現在の当主の方でした。退職後は地元に帰り農業をされています。物凄く古くからある家柄で何代目かお聞きしたのですが、忘れてしまいました(-_-)
投稿者 お : 2014年05月30日 22:52