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2014年05月15日
水菜と明太子のスパゲティーほか
今日は午後からホテル・オークラで新浪剛史ローソン会長と対談したあと、新宿で幻冬舎のヒメとさまざまな仕事の報告をし合ってから新国立劇場でシェイクスピア作・白井晃演出の「テンペスト」を観劇。出ずっぱりになるので、アベボンの記者会見はしっかり録画して出かけたものの、その件に関しては後日に致します。
新浪氏とは「文藝春秋」別冊?の特集ページに掲載予定で、茶道を通して日本文化を語るといった内容の対談をさせて戴いた。氏は裏千家の桜井宗幸師に入門され、忙中閑を見つけつつ結構ホンキで茶道に打ち込んでらっしゃる様子がわかったことや、経営者としての心境をわりあい率直に話されたことも面白かった。長身のスポーツマンタイプだが、わりあいナイーブな面も垣間見られるなかなかにチャーミングな男性で、もちろん初対面ながら、とても気さくな感じでお話ができたのは何よりである。
「テンペスト」はこれまでにさまざまな上演で、それなりに面白く見ていながら、イマイチ腑に落ちた気のしない芝居だったのだけれど、今回はこれが正解かどうかは別にして、なるほど、こういうふうに解釈したわけか〜とハッキリわかる芝居にはなっていたように思う。一口にいうと主役プロスペローの姿を通して「死」を目前に意識した人間の孤独を描くことに終始した芝居であり、プロスペローの視点による一人称的な展開を図った結果、他の部分は相当に削ぎ落とされてコンパクトになり過ぎている印象を受けるのだった。映画化ならともかくシェイクスピア劇の舞台化でここまで一人称的に展開するのは珍しいように思うし、私は初めて見た「テンペスト」で小池朝雄の演じたキャリバンのセリフが素晴らしく印象に残ったものだから、この芝居をプロスペローだけのものにしてしまうのは相当に惜しいような気もするのだが、プロスペローの姿に「死」を目前に意識した人間の不機嫌さと寛容さの双方を強く映し出すことで、この芝居の時代を超えた普遍性が現代人に最もわかりやすい形で提示されているようにも思えるのだった。一人称的な展開をより強く感じさせたのは、主演した古谷一行の映像系の人らしい内省的なエロキューションによるところもあったのだろう。舞台を奥深く使いながら膨大な数の段ボール箱を可動装置に積んでそれを重ねたり崩したりする場面展開や、音楽のタッチやダンスの挿入の仕方などで、舞台全体が「維新派」のそれのように見える一瞬もあった。