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2013年07月06日

盲導犬

今日はシアターコクーンで初日を開けた話題作「盲導犬」を観たが、何せ唐十郎の戯曲とあって、凡庸な読み解きをしても始まらず、ただただ天才の発したコトバのイメージから成り立つ詩的な世界を感じたままに綴るのみだ。それにしても、この戯曲は上演の仕方や演者によってもずいぶん違った印象を受けるのではないかと想像されたが、コインロッカーを背景にシンナーを吸ってるフーテン少年(小出恵介)や、消えた盲導犬の行方を捜す盲人(古田新太)の登場する設定にしてからが、初演の70年代と今日とでは観客にも演者にも受け取り方が相当に違ってしかるべきだろう。つまりは当時はその設定にもっと生々しい世話物的な感覚があったからこそ舞台全体に漂ったに違いない、体制からハミ出した者たちの抱える闇や屈折といったものが薄まったように感じられるのは如何ともしがたいのだろうと思う。ただし、それゆえにまた「何故そんなに飢えるのか俺のファキイル……忘れるんだファキイル勝ち目はない」と盲人に歌われる不服従の象徴たる幻の犬ファキイルの存在自体が、体制と反体制といった時代状況から離れて、人間のもっと根源的なところから生じる得体の知れない怪物として立ちあがってくる面白さも窺えた。従って「支配と不服従」もまた普遍的な男女の関係性においてより濃厚に感じられる舞台であり、初恋の人のラブレターをコインロッカーに封じられたまま夫を喪った未亡人と、その夫を海を渡った土地で殺した現地の女性の二役を一身に備えた存在がその象徴として鮮烈な印象を与えるのである。とにかく彼女を演じた宮沢りえが出色の出来で、男たちに彼女を支配しようとする妄想をかき立てながら、実は彼女の被支配的な妄想こそが男たちを操るかに見えるような独特の存在感を発揮している。ことにラスト近くでようやく登場する幻の犬ファキイルに襲われて彼女が絶命するシーンは、まるで文楽の人形のような透明感を放つことによって、実はファキイルは彼女の内側にこそ存在し、死んだあとの彼女はファキイルが解き放たれて飛びだしていったあとの抜け殻のようにすら見えるのだった。もっともそれは余計な深読みであり、この戯曲はあくまで男の妄想によって生みだされた男たちのドラマであって、ラストは盲人とフーテン少年がコインロッカーを焼き「待ってろよ、ファキイル、これを焼ききる時、俺たちはお前と一緒にダッタンを越え、ペルシャを越え、ナイルを遡るんだ!」という唐戯曲らしい男のロマンが叫ばれて幕を閉じるのである。ほかにも「支配」を象徴する人間として盲導犬学校の先生と未亡人の死んだ夫の二役で登場した木場勝己の存在感が大きい。大きいといえば大林素子が今回は婦人警官役でちゃんと女優らしい演技を披露したのも印象に残った。蜷川演出では幕開きに盲導犬を演じる五頭の生シェパードが歩きまわるシーンにぎょっとさせられた後、長らくコインロッカーが背景に立ちふさがっていささか窮屈な舞台に感じられたのだけれど、その分テントが開くようにしてコインロッカーが後ろに消え、巨大な赤い月を背景に女の後ろ姿をくっきりと見せるシーンの解放感と美しさは格別だし、そこから女の絶命に至るまでの迫力が素晴らしかったといえそうだ。


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