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2012年04月03日
シンベリン
さいたま芸術劇場でシェイクスピア作蜷川幸雄演出の「シンベリン」を観る前に大宮駅ナカの「トップス」で旧友のモリと食事。「ぴあ」で演劇記者をしていたこともあるモリは外務省勤務のダンナと一緒に長らく海外暮らしを余儀なくされており、一緒に芝居を観るのはン十年ぶりのこと。ふたりとも「シンベリン」は以前ひょっとしたらシェイクスピア・シアターで観たのかもしれないけれど、ゼンゼン記憶が無いので初見
といっていい芝居である。
そういうわけで今回は珍しくプログラムの筋書きに目を通したのだが、これがさっぱり頭に入ってこず、困ったな〜と思いながら見始めたのであった。ところが、いざ舞台を観れば話はとてもわかりやすくできていて、このギャップって何かに似てるよな〜と思い当たったのが古典歌舞伎だ。つまり筋書きが悪いのではなく、ストーリーの展開が破天荒なために、粗筋をたどるとアタマが拒絶反応を起こすのだけれど、それを舞台で観れば理解できるのは、登場人物の「役柄」今でいうキャラがカッチリ出来あがっているからで、辻褄が多少合わなかろうが、荒唐無稽だろうが、許されてしまう古典劇というものが普遍的にあるのを改めて感じさせられた。ギリシャ劇のデウス・エクス・マキーナのようなものまで登場して悲劇が救済される「シンベリン」の大らかな楽天性は、歌舞伎の中でも初期の元禄歌舞伎のような味わいがあり、それだけに役者それぞれの器の大きさが絶対に必要とされる。今回のプロダクションはそのことをきっちりと踏まえた配役になっていたからこそ、ふつうだと許されないようなご都合主義の結末が、大きな感動すらもたらすまでの大
円団に仕上がったのだろう。タイトルロールのシンベリンは「義経千本桜」の義経のように芝居の要ではあっても為所の少ない役といえるが、ここにニナガワ演出での主役が多い吉田鋼太郎を、そしてその王妃の悪役に鳳蘭を配したことが、芝居のスケールを一段と大きくし、王妃の息子のアホぼんキャラを勝村政信が軽妙に演じることで芝居に弾みがついた。シンベリン王の娘とその恋人役は男女の理想的なカップルとして描かれており、大竹しのぶは歌舞伎役者顔負けの年齢を超越した姫君役を堂々と演じて見せ、阿部寛は容姿と佇まいで世界に通用する天下の二枚目ぶりを発揮し、二枚目に対抗する敵役の窪塚洋介は独特の粘りのある発声でそのキャラを巧く印象づけ、これも元禄歌舞伎によくある「やつし」の家老役はこれもニナガワ常連チームの瑳川哲朗が重厚に演じて芝居をよく引き締めている。
今回はロンドンに招待される公演ということもあって、音響や装置全体が和調に整えられているが、すべての葛藤が解消して平和が訪れる幕切れには1本の松の木が舞台の中央に高く聳え、芝居の奇跡的な大円団があたかも日本復興再生の奇跡を思わせ、楽屋から始まるオープニングと観客の拍手を背にバックステージへ駆け戻っていくエンディングが好一対となって、芝居というものはこの世に奇跡を起こし得るものだという熱いメッセージ伝わってくる。要するにこれは世界のニナガワが日本の奇跡をロンドンオリンピックに届けにいく舞台なのだろう。
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コメント (1)
めったに上演されることないシンベリンだが、以前、「子供のためのシャイクスピアカンパニー」で観てすっかり好きになった。
本当にくだらないご都合主義の喜劇的プロットなのだけれど、最後に祝祭的なそしてシンベリンの「許し」の一言で全く価値が変わる。「ペリクリーズ」もそうなのだけれどこのラストで観客は癒される。戦いの果ての「許し」によって全き幸せを感じて意識が昇華する。それは400年前もそして今も人間が変わらないことを示している。争いが耐えない世界だからこそこの劇が上演される意味が在る。やはり沙翁が素晴らしいのはこの時代を超越した価値観です。
北朝鮮がミサイルを撃った後に見るシンベリンは胸に迫る。
投稿者 MACCHI : 2012年04月15日 20:27