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2012年03月11日
1年前の今日
1年前の今日は金曜日で、私はいつも通り小説の執筆をしていた。
新潮社のクスノセ氏からyomyom誌の創刊20号記念に初めて時代小説を載せたいということで、イレギュラーに短編読み切りを依頼されて、ちょうど半分くらい書き進んだところへ今まで感じたことのない大きな揺れに襲われたのだった。あわてて立ちあがって書斎のドアの下にうずくまり、本棚にむりやり横積みしておいた本が何冊かと、突っ張り棒でぶら下げておいたカレンダーがバサッと落ちたのでびくっとするも、リビングでは歌舞伎座の檜舞台の一部を蒲鉾板状に切った木片を立てて置いてあったのがパタンと倒れたくらいだったし、横揺れから始まったので震源地は遠いとわかり、わりあい落ち着いてTV点けたら、震源地と津波情報の字幕だけが現れたので、すぐに消して再び仕事に取りかかろうとした時にまたかなり強い揺れがあって、今度の余震は静岡方面だとわかった時はさすがに恐怖を感じたものの、その後の余震はさほどでもなかったのでずっと執筆を続けていた。小説を書くという行為は現実とは別次元に意識が飛んでることなので、その間現実の感受性が鈍くなるのかもしれないが、通常通り夕方まで執筆を続けて近所のマルエツに買い物に出かけ、この日に見たQPの料理、たしか鶏肉の辛み炒めの食材で、松の実なんかもしっかり買って家に引き揚げ、ごくフツーに料理をし、ケータイの地震速報がうるさく鳴るとそのつど火を止めたりなんかしながらも、きちんと仕上げてテーブルに着き、いざ食べようとしてTVを点けたら、いきなり火の海になった気仙沼市の映像が目に飛び込んで初めて事態の深刻さに心を致すこととなった。
友人の何人かに電話してもケータイオンリーの人は全然通じず、最初に通じたのはイエ電の進藤さんで、ケータイの人とはメールでしかやりとりできないし、翌土曜日は乗馬クラブに予約を入れてたのを想い出して、通じるかどうか試しに電話してみたら、営業をしてるのがわかってまたビックリし、さすがにその日はキャンセルをしたものの、翌々日の日曜日にクラブに出かけたのは馬よりも誰か人に会いたいという気持ちが強かったからだ。何しろ引っ越し間なしで近隣に友人はおろか知り合いもないくらいだったし、さりとてあの時点で東京方面に出かけるのはあまりにも大変そうで、近場のクラブに行くほうがまだいいように思われたのだ。実際に行ってみたらレギュラーのメンバーがしっかり顔を揃えていて、オペラ歌手のSさんやペンギンのOさんはナミダにくれながら被災地の知人親戚を気づかいつつも、「TV見てたって自分が何もできないことに気が滅入るだけだし」と仰言っていたのを想い出す。震災もさることながら、それに引き続いて起きた原発事故がさらに事態の深刻度を増していて、高校を卒業して大学の入学を待つばかりという人生で最高にハッピーな時期であるはずのナッちゃんが、「同じ死ぬんだったら、好きな馬に乗って死にたいから」と涙声で訴えられたのも今に忘れがたいことである。その日はまだ余震も多かったし、馬がそれで暴れて振り落とされる心配もある中で騎乗したことにより、私は肝がすわったような気もして、その後の余震は比較的平気になり、月曜日からは通常通りまた淡々と執筆を続けていた。もちろんTVの映像をまったく見なかったわけではないにせよ、それに振り舞わされることがなかったのは小説の執筆と乗馬のおかげともいえそうである。
TVの映像が現実をいくらリアルに生々しく映しだしても、それを紛れもなく対岸の火事として眺めるしかない人間は、被災者のお気持ちをお察しするのが関の山で、気持ちを一つにしたり、気持ちを共有するなどと安易にいうべきではないだろうと私は思う。今日も朝からTVで土地のかさ上げが進まなくて復興が遅れぎみらしい気仙沼市の映像を見れば、ああ、yosiさんはどうなさってるだろうなあと気になるのは現実にお会いしているからであり、この世の中ではどんな出来事も本当のところは個別的な体験でしかなく、その個がつながることで社会は成り立っているのだった。したがって社会の強さは、本当は個がどれだけ他との境界線を明確にして己れをしっかり把握しているかにかかっているはずで、映像やバーチャルな画面による情報が現実にどんどん浸食してくる時代においては、一方でそれがボランティアなどの現実に役立つ方向に進むことも十分あるとは認めつつも、個が集まって成り立つはずの社会がどんどんもろくなっていく危険性も指摘せざるを得ないのだった。被災地と思いを一つにするといいながら、瓦礫処理の引き受け先にさえ困っているという日本の状況はその顕著な例でなくて何であろう。
ともあれこの間、私自身わずかな義援金くらいしかしていないし、自分のペースを崩さぬようにきちんと仕事をするのが精いっぱいという、実にちっぽけな人間であることを改めて自覚せざるを得なかったが、今後もそうしたちっぽけな個人として、震災後のさまざまな社会のありようを冷静に眺めていきたいと思うし、また東北の復興を応援する気持ちだけは忘れないでいたいものだ。
ちなみに、つい3日前に幻冬舎のヒメを経由して送られてきた「あしなが育英会」の書類には、オフ会にご出席いただいた皆様からお預かりしたお金の受領証明書に添えて、それら全国のみならず海外からも集まった津波遺児への寄付金が年内に約45億7900万円に達し、それらが職員と遺児学生たちの手によって被災地にちらばる1975人の子供達ひとりひとりに一時金200万円として既に手渡され、その分配の速さは全国のどの団体よりも優っていた旨が記されておりましたことをここにご報告申しあげておきます。
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コメント (1)
今日は一日津波被害の大きさの検証と被害者についての報道をみていましたが、一番気になった親を亡くした子供たちの基に「あしなが育英会」の寄付金が行き渡った事に少しホッとしました。お金があれば良いというものでは無いですが、しかし無ければ一番困るものですから。
瓦礫処理について大阪市長の橋本氏は憲法9条を持ち出し「この法律があるから悪い」と言っていますが、こんな時に9条の是々非々を持ち出すよりも震災後マスコミが書きたてた「絆」これを本当に感じるのなら日本という災害の多い島国に住んでいれば何処に居ようと災害の被害者に何時なるかわからない。又そこからの復興は先ず瓦礫を除去しなければ始まらない
、このごく普通に考えればわかる事を判るように言って欲しい。これを理解して受け入れる事が「絆」の第一歩だとマスコミも報道してほしい。沖縄問題もいつも「総論賛成、個々反対」これではいつまで経っても何も解決しない。こんな子供じみた意見を国民が持ち続ける限り政治も良くならないし、災害からの速やかな復興も出来ないと思います。正直、子供たちの健康を盾に瓦礫を引き受けない人たちの意見の報道を見ていると、戦後子供時代を送った我々は「自分の子供だけが健康で健全な場所で生活できれば全てハッピーになるのか?」と聞きたくなります。
投稿者 お : 2012年03月11日 23:13