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2011年02月02日
サド侯爵夫人
シアターコクーンで三島由紀夫作・蜷川幸雄演出「サド侯爵夫人」を観る前に渋谷東急プラザの「麻布茶房」で大島さんと一緒にシーフードカレーを食す。
同じく三島戯曲の「わが友ヒットラー」と併せて同じキャスティングで上演するこの公演、瑤子夫人がご存命なら「ミシマダブル」と名づけるのは許されなかったんじゃないかと思うが、それ以上に「サド侯爵夫人」をオールメールで上演することの許可が下りたかどうかである。正直言って若干コワイモノ見たさで臨んだにもかかわらず、いざフタを開けてみれば、今回のオールメールバージョンが、意外に三島戯曲の真髄に最も近づいている点もあるように思われたのである。
観念とレトリックのかたまりのような三島戯曲の中でも、ことに「サド侯爵夫人」は登場人物がすべて観念のキャラ立ちといってもいいような作品であるだけに、生身の女性でないほうが存在がくっきりするという利点もあるし、膨大なレトリックを朗唱する体力の点でも男性が有利という点が否めないのだけれど、それ以上に私がいつもこの作品でひっかかってしまうのは主人公のサド侯爵夫人ルネという存在なのである。
サドという夫の本質と同一化したいと願う「貞淑の怪物」である彼女は「純粋の結晶」ともいうべき存在で、その点がいかにも男の三島が書いた人物であり、女の目から見れば余りにもリアリティを欠いて、脇を彩る他の登場人物と同様の観念的な存在としか感じられないため、その主人公らしいフクザツな思考や行動様式が納得できないまま見終わることが多いのだった。女優さんが演じても、この役は自身の女性性との折り合いをつけるのが難しいのではなかろうかと想像する。ところが今回、東山紀之演じるルネの登場シーンを見て、なるほど、この役はコレでいいのだ!と納得できるほど、「純粋の結晶」的な美しい輝きがあったのは驚きだった。それはつまり作り物の美しさを追及した三島にとってベストキャスティングかもしれないと思わせたほどで、三島戯曲の難解なレトリックをも十分こなすだけの朗唱術も身につけているし、肉体の柔軟性も非常にプラスに働いている。後半はさすがに息があがってセリフを張っていうようになり、幕切れのセリフなどがイマイチだったとはいえ、回を重ねる中で力の配分を巧くすれば、後半の輝きがもっと増すにちがいない。ルネの母親モントルイユ夫人は南美江の硬質な名演が記憶に新しいが、ナン様が非情の女傑を感じさせたのに対して、今回の平幹二朗は世俗の母親を代表する存在として、より生々しい女性を感じさせたのが実に面白かった。演劇の世界は男女を逆転させるのである。
意外な好演だったのは、初の女装役に挑んだ木場勝己で、朗唱の旨さによって説明的な序幕を退屈させずに済んでいる。家政婦役の存在感がここまで発揮された公演も珍しいのではないか、と思わせた岡田正の好演も印象に残る。
演出に関していうと、バロック音楽に能囃子、地謡にマーラーといった掛け合いをするBGMは面白かったが、若干文句を言いたいのはセリフ途中に能管や大皷の効果音が歌舞伎の下座のように多用される点で、ことに3幕のモントルイユ夫人とルネが丁々発止とやり合う中でやたらと使われるのはちょっと余計だったかも。
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コメント (1)
2年前に、篠井英介さんが加納幸和さんほかとオールメールで「サド公爵夫人」をやっています。それを見たとき、これは男性がやったほうが納得のいく芝居になるのかもしれないと思いました。松井さんが今回ほぼ同じことを書かれているのを拝見して、大変興味深く感じました。
正直なところ、あの値段を払うことができないので見に行くことはないと思いますが、「我が友ヒットラー」も面白いかもしれませんね。
投稿者 nami : 2011年02月03日 13:10