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2009年11月30日
牡蠣の豆豉ソース
QPで見た料理。酒蒸しした牡蠣に白髪ネギと香草をトッピングして、豆豉と生姜のみじん切り、豆板醤、酢、醤油、ゴマ油を混ぜたソースをかけて食す。
食事しながらNHKドラマ「坂の上の雲」を見る。昨夜の放送だが、帰宅開始時に間に合わないので録画しておいた。待望のドラマ化で、「明治」を日本の「青春時代」としたコンセプトに基づく滑りだしは上々と見て今後の放送が楽しみになる一方で、現代の日本でこれがドラマ化されることにはちょっと皮肉な感じがしないでもなかった。司馬遼太郎のこの作品が新聞連載されていたのは60年代の終わりから70年代にかけての高度成長期まっただ中で、ちょうど私が大学に入学した時に連載が完結したのである。なぜそんなことに詳しいのかといえば、大学の一般教養で「国語」の授業を受け持っていた某先生が、この作品の大ファンだったため、肝腎の授業そっちのけで、毎度欠かさずバカの一つ覚えみたいに、自分がこれをどんなに面白く読んでいるかを熱心に話しておられたからである。結果、先生の名前すら憶えていないのに、「坂の上の雲」というタイトルだけは完全にアタマに刷り込まれてしまい、文庫本になった時点で、夢中になって読んだのが、そもそも私の「初司馬体験」だったのだ。以来、司馬作品にはほとんど目を通していて、時代小説を書くようになったのもその影響かと思われるので、結局のところ、大学で自分の人生に一番役立ったのは、名前も憶えていない先生の雑談だったことになるわけだった。考えてみれば、中学にしろ、高校にしろ、先生から聞いた話で憶えているのは雑談だけで、肝腎の授業の中身なんてまったくといっていいほど抜け落ちている。それはたぶん雑談だけがその人のオリジナルなものだから、他人の心に残るという仕組みなのだろう。先生大いに雑談すべしと言いたいけれど、今どきの世知がらい学校環境ではそれもなかなか難しいのかもしれない。ところで話は大いに逸れたが、要するに高度成長期に書かれ読まれた、日本の勢いを感じさせるこの作品が、少子高齢化した現代ニッポンの勇気づけとなるのかどうかは微妙なところのように思われます。
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コメント (1)
「先生の話で覚えているのは雑談だけ」松井さんのような秀才でもそうですか。安心しました(^o^)私も中学時代からの授業も担任教師の名も殆ど覚えていませんのに、歴史の教師が消防車の出動が大好きでサイレンが鳴ると授業中断で「どの辺りが火事か」推測話が始まった事はしっかり覚えていますが、その先生に習った歴史な全然覚えていません。確かに雑談はオリジナル、授業が退屈なのは個性が無いからですね。
投稿者 お : 2009年12月01日 23:10