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2008年01月27日

牡蠣フライ

乗馬の帰りにクラブで知り合ったSさんと一緒に大宮のルミネで食事。
 今日はクラブハウスでいきなりMさんから「疲れた顔してますねえ」といわれてしまったが、2鞍とも騎乗してすっかりいい気持ちになり、お待たせしていたSさんと一緒に帰途につく。
 Sさんのことは前にも書いたが、かつて池袋にあった三業地(花柳界)にお住まいだったところから『吉原手引草』を気に入ってくださって、お父様の遺品の中にあった春画の巻物を私に見せたいと仰言った年配の女性である。長年某大手進学塾にお勤めだったが、お嬢様の嫁ぎ先である和歌山にお引っ越しになるとかで、今日がクラブにいらっしゃる最後の日となり、私との約束を忘れずにその春画を持ってきてくださったのだった。モノがモノだけに、クラブハウスで広げるわけにもいかず、大宮のどこかの店でもといいつつも、お互い全くの不案内で、結局はオープンなレストランの片隅でひそかに広げて見せてもらった。
 写真を撮っていいですか?と訊いたら、どうぞ、どうぞ、とのことだったので遠慮なくバンバン接写させて戴いたのだけれど、あいにくケータイのカメラしかなかったのでさほど鮮明な画像ではない。ブログに掲載してもいいですか?と訊いても、どうぞ、どうぞ、だったのであるが、さすがに下半身の画像を載せるのは控えておく。要はナニとナニが結構リアルなタッチで描かれたモノホンの春画で、ただし歌麿ほどのデフォルメはない。
 私は前に日本橋のとある画廊で、春画を山のように見せてもらったが、それらはすべていわゆる浮世絵師のもので、版画が大半だった。人物も概ね江戸時代の髷を
結った男女だったように記憶する。
 今回見せてもらったのは、写真でもおわかりの通り、江戸期より古い時代をイメージした人物画像で、現存の体裁は巻物だが、原画はどうやら俗名を午之助とも喜六とも友九ともいって、出家後に狩野空々と称した狩野派の絵師が描いた極彩色の絵本のようである。Sさんが所持していたのはその写しで、衣裳の部分は着色せずに色の指定を書き込んであった。
 Sさんのお父様は日本画家の坂下日向師で、坂下師は若い頃に一時狩野派の誰かに師事なさったので、恐らくはそこから伝わったものだろうとのこと。巻頭には「陰陽十二人図」と記してあったが、正常な男女のそればかりでなく、縛りもあれば、少女を犯す稚児若衆に背後から僧侶が襲いかかるというややこしい構図や、少女と尼さんが女同士で道具を使って愉しむ図など相当にキワドイ絵を堪能させてもらった。
Sさんは長年教育に携わってきた方だが、お父様が画家だっただけに芸術に頗るご理解がおありになり、お嬢様のおひとりはロンドン大学に留学し、息子さんは芸大を出て映画のプロデューサーになられたようである。「日本では、芸術でメシ喰えるようにはなかなかなれませんからねえ」とお嘆きで、クラブ最後の日にわざわざ私に会ってお父様の遺品を見せてくださったのも、そういったご理解があればこそだろうと思う。お会いしたのはほんのわずかの時間だったけれど、いろいろとお話を伺って、お別れするのが惜しい気持ちでいっぱいでした。


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コメント (3)


今日のコメントを読み、私が結婚する前に伯母が「四十八手」とか言う紙入れを密かにプレゼントしてくれた事を思い出しました。
真赤に絹地に金色の刺繍糸で小さく何やら刺繍してあるのですが、頂いた時には「変わった模様」と見ていたのですが後にその絵の形態が分り、とても外出時に持って行ける紙入れでは無いと赤面しましたが、昔は福財布だったとか聞きました。

投稿者 お : 2008年01月28日 22:55

 昔は春画をお守りとして嫁入り道具のひとつにしていたという話を何かで読んだのですが、その本がまだどうしても引っ張り出せません。ただそういうことがあったのは確かなようです。

投稿者 今朝子 : 2008年01月29日 23:29

京都の北村という餅料理のお店で、カウンターに座るとちょうど目の前にくるところに小さな襖があり、その中にそこのお祖母さまの嫁入り道具だったという春画が貼られていました。

投稿者 ひろ : 2008年01月30日 09:25

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