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2007年11月08日
ポークソテー、シーザーサラダ
国立劇場で「摂州合邦辻」を観た帰りに近所で米朝事務所の大島さんと花の会の池田さんと食事。
「合邦」の玉手御前という役は、扇雀を名乗っていた坂田藤十郎が弱冠二十歳で伝説的な名演技を披露したにもかかわらず、東京では確か初演となるはずで、この際ひとりでも多くの方に観てもらいたいと願うのは、何も親戚の身びいきではなく、この芝居を「本行」に則してここまできちんと上演できる役者は、もう二度と現れないという気がするからである。にもかかわらず、夜の部(といっても午後4時開演!)はきょう1日だけで、あとはすべて午前中に開幕するというのだから、そもそも国立劇場の公演スケジュールは一体誰に見せるつもりで組まれているのだろうか(-.-)
ともあれ藤十郎が玉手御前を演って、今回も何が一番いいかといえば、やはり芸がいまだに若々しい点だろう。年齢を考えると、見た目の若さも驚嘆に値する。
玉手御前という役にとって若さが非常に重要なポイントだと私に気づかせてくれたのは、文楽の人形遣いで早くに亡くなった豊松清十郎である。私は彼の玉手御前を見て、趣きは異なるが、まるでジャンヌ・ダルクのように、独りで思い詰めて、誰にも頼れず、一身を擲って突き進むしかない、若い女の悲劇を感じた。若い女だから、そこまで思い詰めてしまったのだと感じさせるものがあってこそ、この芝居は西洋的な概念の「悲劇」たり得るのである。
藤十郎が今回素晴らしいのは「手負い」になってからのセリフだ。「不義でないとのいうわけは」とある現行の歌舞伎台本を、本行の浄瑠璃通り「恋でないとの言い訳は」とし「恋……」と一言いって息を詰め「でないとの言い訳は」と続けるところで、義理の息子に偽りの恋をしかけているつもりでも、武智鉄二師のいう「深層心理」では本当に恋していることを匂わせた。それは決して継母の熟れた肉欲を伴う恋ではなく、清純な娘心の延長線上にある恋と感じさせたのは藤十郎の芸の若さだろう。
ところで「手負い」のくだりを中心に芝居全体を浄瑠璃の本行に則したものとしながら、大詰めの幕切れを通し上演のまとめのかたちにしたのは明らかに脚本と演出の失敗で、せっかくの劇の流れが途切れて感興を削ぐこと夥しい。また配役面では現時点でそこそこのベストメンバーを揃えているにもかかわらず、今ひとつ舞台が盛り上がらなかった憾みはある。先月の舞台ではあんなに張り切っていた三津五郎が、全く精彩を欠いて見えたのは、観客の入りがふるわないせいだろうか。名前は出さないが、役者を廃業させたいくらいヒドイ御曹司役者も出ていて舞台の邪魔になる。そのいっぽうで上村吉弥や片岡愛之助の活躍と成長を見るにつけても、血縁による世襲が必ずしも良いシステムではない証拠を得たような気がした。
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コメント (3)
私も昨日見にいってました。
「摂州合邦辻」は梅幸の玉手しか見たことが
ありませんが、梅幸の玉手のように俊徳丸への
恋心がはっきりわかる演じ方よりも、今回の山
城屋さんの玉手の深層心理で恋しているとした
方が芝居の後味はよかったな、と思います。
勿論、梅幸の玉手もそれはそれで素晴らしい
物でしたが。
某御曹司に関しては、舞台でせりふ忘れて
立ち往生しないだけましかと。
ところで、もしかしたら私の横の席で台本を
読んでいた方は、松井さまかと思いましたが、
たぶん勘違いかな。
投稿者 羊猫 : 2007年11月09日 12:23
>もしかしたら私の横の席で台本を
読んでいた方は、松井さまかと思いましたが、
別の方だと思います。私は台本を持ってないし、幕間は3人組でおしゃべりしてました。それにしても世間は狭い!うっかりしたことは言えませんね(笑)。
投稿者 今朝子 : 2007年11月09日 13:56
25日に東京まで遠征して見に行く予定です。皆様の書き込み、大変参考になりました。
「摂州合邦辻」は「合邦庵室の場」しか見た事がありません。しかも菊五郎丈しか見た事がありませんので、藤十郎丈の玉手午前は楽しみです。
某御曹司の事は、ただただお父上が気の毒だなあ、といつも舞台を拝見した時に思っています。
私は愛之助さんのファンなので、松井様の書き込みとても嬉しく読ませて頂きました。一生懸命頑張る方が良いお役をさせて頂けるシステムになれば嬉しいですが。
投稿者 おゆき : 2007年11月09日 23:09