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2007年09月07日

ドラクル

今日は午後から「京都あけぼの賞」の事前取材、「Yahoo!ブックス」と「日経新聞」夕刊図書広告のインタビューが立て続けにある。「あけぼの賞」は『枕草子』の「春はあけぼの」に拠った名称で、京都出身の女性に与えられる賞だというのを初めて知った。作家の受賞は山村美紗さんに次いでということらしく、10月半ばの授賞式には髪を縦ロールにして臨もうかと思ってしまうが(笑)、冗談はさておき、取材にわざわざ東上までしてくださる京都府庁の方にはご足労をおかけして申し訳ない感じだ。
 ところで昨夜は台風直撃にも関わらず、コクーン劇場は立ち見まで出る盛況ぶりで、演劇界期待の星、長塚圭史と市川海老蔵のジョイントは斯くも人を呼び寄せるのかとまずは感心した。目下、商業演劇的な制作に一番勢いが感じられる劇場で、今回に関しても照明や大道具等に相当金がかかった仕込みが見てとれたが、芝居はやはりそれだけでは満足がいくものにはならず、なんといっても肝腎なのは脚本であることを改めて認識させられる舞台だった。ハッキリ言って、長塚圭史に脚本を書かせることには演劇界全体がもう少し慎重になるべきではないかと思う。
 同行した内山さんは彼を世に出した傑作『犬の日』をご覧になっていて、「あれは結局、例外中の例外の産物だったとしか思えないですねえ」と仰言ったが、『アジアの女』と今回を見た私の感じでは、演出のセンスはあっても、余りいい脚本が書ける人とは思えない。ドラマチックなシーンが頭に浮かんでも、それを劇的な構造に組み立てるセンスに欠けているし、セリフもまたある明確な基準をもって精錬された言語とはいえないものが冗漫に続くので退屈する。これも改めて「劇」の言語は、小説の言語以上に、いわば細い管を通して抽出するワザを望まれることが実感された。商業演劇なら商業演劇の、小劇場なら小劇場なりに抽出の仕方が違ってくるはずで、長塚氏はライターが媒体によって原稿を書き分けるような感じで国立新劇場やコクーン劇場の舞台に臨まれたつもりかもしれないが、厳しい言い方をすれば、まだその書き分けができるほど自身の目指す演劇に明確なビジョンをお持ちでないように見受けられた。
 プログラムを読んでおかしかったのは、海老蔵が長塚圭史との対談で「ところで『ドラクル』は何を伝えたい作品なの?」とストレートに訊いていることで、ふつう出演者が作家にコレないだろう!と思うような質問を平気でしちゃうのは彼ならではだが(笑)、作家のビジョンが根本的に不鮮明では演者も戸惑うばかりである。その割には海老蔵はなんとかよく頑張っていたほうだと思う。まるで少女マンガ的イラストから抜けだしたような姿態や風貌は見る価値十分で、今後もまだしばらくはこの手の売り方が考えられなくはない。多くのファンとしては、今回もっと古典的でストレートな「ドラキュラの愛」を見たかったのではなかろうかと思う。


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