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2007年06月19日
氷屋来たる
新国立劇場でユージン・オニール作・栗山民也演出の『氷屋来たる』を見た帰りに近所のバーガーショップで食事。
『氷屋来たる』はいわば「どん底」の米国バージョンといったスタイルで1910年代のNY下町の安酒場を舞台にした群像劇だ。そこはかつて社会主義運動の闘士だった男たちや法律家になり損ねた男、汚職でクビになった警官等々人生に挫折してアルコール漬けになった男たちの吹きだまりと化している。年に1度必ず彼らの元に訪れ、酒をおごったりして喜ばせる陽気で活きのいいセールスマンのヒッキーは、今年に限って異様なくらい熱心に敗残者の彼らが再び立ちあがるよう説得に努め、さまざまな力を貸すが、その裏には彼自身が取り返しのつかない事件を引き起こしていたという背景があった。いったんは立ち直りかけて酒場を出て行った連中も、終幕ではすべて舞いもどったなかでヒッキーの妻殺しという犯罪が明るみ出されるいっぽう、社会主義運動家の母親を持つ青年が孤独な死を遂げる。酒場の連中は自分たちがみなヒッキーの狂気に振りまわされたのだと感じて元の飲んだくれに安住し、唯独り一貫して冷めた男ラリーが「人生という奴、俺には荷が重すぎる!死ぬその日まで、物事の両面を憐れみながら眺めている弱虫な阿呆なのか!」と呟いて幕になるという、なんとも救いのないドラマはさすがにオニールの作品である。
オニールに限らず、米国のシリアスな戯曲は登場人物それぞれが徹底的に孤独な「個」として人生に向き合う悲劇を描くが、それは日本人が見てカタルシスを得るのが非常に難しい芝居といわなくてはならない。今回は木場勝巳、たかお鷹、大鷹明良、中嶋しゅう、若手では岡本健一といったそれぞれ実に芸達者な男優陣をずらりと揃えたことで、なんとか面白く見られたとはいえ、結果役者の芸比べに終始して演出サイドが芝居全体の流れやトーンを調整して明確な方向性を持たせるまでには至らなかった。装置や照明があまりにも開放的な空間作りをして舞台に求心力に欠く憾みがあった点も指摘せざるを得ない。主演ヒッキー役の市村正親はわりあい当を得たキャスティングで、近年になくまともな演技を見せたと私は推したいところだけれど、卒論がオニールだったというのでご一緒した内山さんは「正直いって市村さんの長ゼリフが始まったら私スイッチ切れちゃって、なんも頭に入ってきませんでした」とキツイことを仰言った。確かに妻との関係を長々と物語る一番肝腎のセリフは余りにも単調で私も退屈した。ただし狂気と紙一重の表情や時折キラッと妖しげに光る眼が非凡な輝きを見せた点は評価したい。
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