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2007年03月06日

橋を渡ったら泣け

シアターコクーンで土田英生作・生瀬勝久演出のストレート・プレイを見る前に「ドウ・マーゴ」で軽く食事。スター級が出ている公演でもないのに立ち見が出ていた!劇場に客がしっかりついてるということもあろうが、土田・生瀬のいわゆる京都演劇人のコラボが期待を持たれたのはたしかである。
 土田英生はあきらかに不条理劇の系譜に立つ作家なのだろうが、私は『悔しい女』でこの人の作品に初めて接したとき、あまりにも小市民的なリアルさを重視している作風のために、一体どんなタイプの劇作家だと解釈すればいいのか迷ったほどである。ただ押しつけがましくないユーモアのセンスがとても魅力的だったので注目はしたものの、そのときはまさかコクーンでひと月公演ができるようなメジャーな作家とは思えなかったし、今回の『橋を渡ったら泣け』もメジャーな舞台を必要とする戯曲とはいえないのである。にもかかわらず今回の上演がけっしてスカスカした感じにもならずにコクーンの舞台にきちんと納まって見えたのは生瀬演出のお手柄でもあろうし、旧来の不条理劇とは一線を画する土田戯曲の「ふくよかさ」とでもいうべき魅力によるものだろうと思う。
 ストーリーは近未来に何かとてつもない災害に見舞われて生き残った人びとの鎖された集団の中で進行する。人びとは皆いずれも意外なほどに平和な小市民的日常を維持し続けているように見えるが、その陰には「秩序」をめぐる「権力」が絶え間なく推移しており、そこに当然ながら「暴力」が絡んでくる。ある日ふいに訪れたストレンジャー(大倉孝二)によってその「権力」構造がしだいに顕在化し、ストレンジャーは自らが「権力」の地位に就いた段階でその恐ろしさに気づいて集団を去らざるを得なくなる。これが旧来の不条理劇なら登場人物が記号化された存在に徹してテーマに沿った劇構造をシャープに浮かびあがらせるところを、土田戯曲の場合はミニマム且つリアルな会話によって各人物に生々しい性格が付与されていく。物事を深く考えることは苦手な男(八島智人)や自意識過剰の女(奥菜恵)、物事の基準の喪失と同時に自身を見失ってしまうインテリの夫(小松和重)と、そうなれば隣りにいる人間を信じるしかないと割り切る妻(戸田恵子)、コンプレックスの強さから権力欲に駆りたてられる男(六角精児)等々いずれも壮大なテーマとは似つかわしくない等身大的な人物がコミカルなやりとりを交わし、時には狂気に至る怖さを感じさせつつも、ラストは実にほんわかとして人間に救いのある幕切れとなる。これまた旧来の不条理劇ならもっとブラックな幕切れになるはずだが、現実の世の中がここまで暗くなってしまった今日では、むしろこうした甘い芝居のほうが受けるのもわかる気がするのだった。


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